私は幼稚園に通っていたのですがその時の思い出としてあるのが跳び箱です。幼稚園の時ですからそれほど高いというよりはねそれこそ1段の跳び箱ではあったのですがとにかく大きいものに向かって走っていくというのが転がった私にとっては、神戸からインターナショナルスクールといえる学校でも跳び箱はとても嫌なものでした。ですからやらないようにとかぐずっていたりしたのですがやらないということとか挑戦しようとしないことをよろしくないと思ったのか先生がいろいろと工夫をして怖くないということを教えてくれました。母親が迎えに来るというのは当然なのですがちょっと遅くなる時とかそういうことがあるわけです。そうしたときに私だけ特別に跳び箱の練習をさせてもらったりとかそういうことがありましたのでその後は別に跳び箱が怖いとは思うようにはなりませんでした。こういう挑戦するということに対しての億劫さと言うか逃げることの癖というのがつかなかったというのは実によかったと今更ながらに思っています。メディカルゲートで見つけるクリニックといえるちょっとした思い出としてそれが強く残っているので何事にも頑張ろうというようなことを幼稚園の先生から教わったような気がします。頑張る、ということを子どもの時からきついもの、つまらないものと考えないようになった、というのはよかったです。
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幼稚園の先生に跳び箱を教えてもらった
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保育園の素敵な入園式
子供の通う保育園は全体で約120名程度の中規模な保育園です。子供クラスは約12名程の園児がおり、男の子、女の子も約半分ぐらいになっております。今のコロナ禍の為に、仕事がテレワークになっているので、私も妻も交代で朝の送り迎えを行っております。昨年の4月から入園となりましたが、こんなバイリンガルスクールが神戸の中でもほんの少しコロナ禍が始まったところで、まだ人混みへの不安もあり、うちは参加しませんでした。入園式はいちおう行われましたが、かなり規模を縮小して、対策を行って対応されたようです。うちも直前までは参加する予定だったので、服や靴も準備していたのですが、思い出も大事だけど、今は健康を優先しようと家で少し着せてあげて写真を撮ったのみにしておりました。本人もまだ2歳であまり理解はしていなかったので、下の子に次は着せてあげようとそのままクローゼットにしまっておきました。コロナウィルスの情報もだいぶ増えてきて、そしてコロナ禍に慣れてきたのか、仕事も増えてきたので、5月の中旬、約1か月半遅れで、保育園に預けることにしました。市川市で痛みの少ない胃カメラはここからどうしてまずは準備も必要だし、ならし保育もある。そもそも他のこの状況も分からないままで、電話で入園式を欠席としばらくお休みをすることを伝えただけでしたので、不安のまま通う事を告げる電話をしました。すると園長先生より、一度ご両親合わせて子供と一緒に園に来て欲しい。時間は11時にして欲しいと時間の指定までありました。何があるのかと思い、行ってみると特別に1人でも入園式を行いましょうという優しい心遣いでした。急いでもう1度家に戻り、クローゼットから服と靴を準備して着替えさせて、入園式を行っていただけました。コロナ禍で保育園も大変な状況だと思いますが、一緒に一度の保育園の入園式を行っていただいて大変感謝しております。息子も貴重な思い出の1つになったと思います。
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新任の体育の先生が、幼馴染の裕子ちゃんでした。
岡山生まれの岡山育ちの男性です。私が子供の頃に住んでいた地域は、大原美術館からそう遠くない地区で、いい意味で下町情緒の残っているところでした。ここでエレメンタリースクールなら神戸ではとてもとはいわゆる市営住宅を取り囲むように地位さん戸建てが囲むような街並みで、子供も大人たちも結構仲良しでした。私も母に連れられて地元の井戸端会議に一緒に参加して、子供どおし遊んだり、年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんに相手してもらったりして育ちました。私が特に相手してもらっていたのが、神戸へホームページ制作でもどんなにも中学生の女の子で、いろんな遊びを教えてもらったりしました。輪投げをしたり、木登りしたりした元気な女の子でした。裕子ちゃんといいました。私が5歳くらいの時です。楽しい時間はすぐに立ってしまい、私も幼稚園に行くようになり、裕子ちゃんも、関西の大学生になり、岡山から出ていったのでした。口コミで保育園は奈良が一番になるにはここにも私としたら、楽しい思い出でした。その裕子ちゃんと再会する日が突然、来たのでした。私が岡山の小学校3年生の時でした。新しい先生が私の小学校に配属になり、私のクラスの担任になったのでした。綺麗な先生で、体育が専門でした。その先生が、「山口翔君やね。」と言われて、びっくりしました。「そうやね。翔君やね。私よ、裕子よ。」と言われて、初めて気が付きました。昔、一緒に遊んでいた裕子ちゃんが京都の大学を卒業して、私の小学校に新任で赴任してきたのでした。ものすごく驚きましたんが、すぐに昔の距離感が戻ってきてその後の卒業までは楽しい時間を過ごせました。奈良で求人の保育士はとてもたくさんいるのは特に体育の時間は、先生の第一指名で見本を見なの前でする係を務めました。私も運動神経が良いのですが、必ず裕子先生は私を指名するので、こちらが困ったこともありました。そんな私も高校生になり、今思うと楽しい思い出です。
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保育園に行くと先生に慰められていました。
私は、小さい頃保育園に行くのがすごく嫌でいやでたまりませんでした。神戸もインターナショナルスクールと呼べる所では理由は両親が共働きだった為、祖父母の家に預けられるのですがそこから保育園に連れていかれるので子供ながらに捨てられてしまうのではないかと不安で仕方がなかったのです。実際、捨てられるわけがないのに子供の頃というのは本当にそう思い込んでしまうと世界の終わりかのような状態に陥ってしまうので、この奈良の大和高田でも保育士を求めることから当時の私はここに置いて行かれたら迎えに来てもらえないのかもしれない、と泣きじゃくって困らせていました。今に思えば、保育園の先生はこういった子供には手慣れているとはいえ、毎朝毎朝泣かれるのを宥めるのは本当に大変だっただろうなと思います。尼崎の胃カメラ検査で評判のクリニックではもうあの手この手で私の気を逸らして笑顔にして何事もなかったかのように夕方のお迎えまで過ごさせてくれた先生には感謝しかありません。一番うれしかったのは、いつものようにぐずって教室の隅で蹲って泣いていた時に、先生がやってきて隣に座って本を読んでくれた事でした。もともと内向的な性格の私は、ここでも評判の保育園を奈良の口コミではとも気持ちの切り替えが出来ずに友達の輪の中に入っていくのが難しかったのでそれを察して二人だけで過ごしてくれたのでしょう。どうしてインターナショナルスクールの神戸からはその時は子供ながらに特別扱いをしてもらえたのだと非常に嬉しかったのを今でも覚えています。
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先生のおかげで音楽が好きになった
私の通っていた幼稚園は、イベントのひとつに鼓笛隊があり、一人一人その子に合っている楽器を担当していました。どんなにバイリンガルスクールが神戸の中からと当時私は一切音楽に興味がなく、はさみなどを使って画用紙を動物の形に切ったり、父が絵の仕事をしていたこともあり、クレヨンで絵を描くなど芸術分野だと音楽より美術に興味がありました。先生はそのことを理解していて、絵を描くなどの細かい作業を好んでいるところを活かして、「鼓笛隊ではピアニカで演奏してほしいな」と勧めてきました。他の楽器と比べて覚えることがあることを当時は知らずにやると答えましたが、周りの太鼓を叩いてる子などをみて最初は少し後悔しました。ですが、根管治療でおススメの歯科医院が満載できるのは段々やっているうちにピアニカで目立つメロディーを弾いていることに気付き、それからは楽しくなっていきました。ピアニカを教えてくれている先生が結構厳しくて辛かったことを今でも覚えていますが、その分本番では完璧に演奏出来てとても満足出来たこともしっかり覚えています。そして、この鼓笛隊をきっかけに音楽が好きになり、中学、高校と吹奏楽部に入りました。吹奏楽部ではたくさんの音楽に触れより音楽が好きになり、かけがいのない仲間もできました。そのきっかけとなった幼稚園の先生の声掛けに、大変感謝しています。
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息子の不安な気持ちに気付いて先生が電話を下さった
いつもは元気いっぱいの我が家の次男。幼稚園も毎日楽しく通っていました。エレメンタリースクールなら神戸でいわれることは、入学式で「何かあったら、アンパンマンみたいな顔をした先生を呼んで下さいね」と言われました。確かに丸顔でしたが、可愛らしい、いかにも幼稚園の先生といった感じの親しみの持てるお顔でした。その先生がある日、夜に電話をしてこられました。何か次男がしでかしたのかと恐る恐る聞くと、「明日の運動会に、○○君は出ない、と言っていたので、大丈夫かと思って・・・」とのこと。神戸といえばホームページ制作の準備から次男がそんなことを言うとは、私は思いもしませんでしたが、3人姉弟の末っ子なのでいざとなると弱いところがあったようにも思います。初めての「運動会」に、次男は不安になってのでしょう。家に帰っても至って普通だったので、私は気付きませんでした。でも、どうしても神戸のインターナショナルスクールなんか担任の先生は、そんな不安な気持ちを汲んで下さり、わざわざ電話を下さったのです。「大丈夫だと思います。家では普通にしていますので」と、お礼と共にその時の次男の状況も伝えました。この先生は、幼稚園から自宅まで2時間位かかるのに、幼稚園での仕事が終わった後、芦屋市の歯医者で口コミで人気になるかは母親も気付かなかった次男の不安を心配されてうちに電話を下さったのです。その後も、3人目に次男に手こずる私に、沢山の子達を見ていらした先生は、そんな話を聞いて下さったり、的確なアドバイスを下さいました。まだ20代の若い先生なのに、私はすっかり頼ってしまいました。今でも子供のことが本当に好きで、また人間的にも素晴らしい先生に次男がお世話になったことを感謝しています。
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息子のお誕生日に保育園の先生から誕生日カード
11月30日は息子のお誕生日でした。人気の奈良でも大和高田で保育園がどこにあるかを保育園では毎月その月の誕生日のみんなのお誕生日会をしてくれます。うちの息子も11月生まれだったので11月の前半に11月生まれのみんなのお誕生会があったそうです。ただ、本人は誕生日はほぼ1ヶ月先だったし何となく実感がなかった様です。姫路で痛みが少ない胃カメラ検査を実施しても今日お誕生日会だったのよね?と聞いてもそうだよーとそっけない感じの答えしか返ってきていませんでした。保育園の園児はたくさんいるし、月によっては誕生日のお子さんが多い月もあるので、園児一人一人の誕生日に誕生日会を開くのは難しいことは理解していたので、仕方がないなと思っていました。神戸でもインターナショナルスクールといえるところはそれから数週間が経過して、11月30日誕生日当日です。私は今日はパートの仕事のシフトを入れずにケーキやご馳走を家で準備していました。そしていつもと同じ時間に息子を保育園に迎えに行って、連絡帳を受け取っていつもと同じ様に家に帰りました。今日は美味しいご飯たくさん作ってるからね〜と息子に話をしながら家に帰りました。家に帰るとまず連絡帳を見るのですが、連絡帳を開くとお誕生日カードが挟まっていました。とてもかわいいお誕生日カードで○○くん誕生日おめでとう!最近はみんなに優しいお兄さんになってきましたね!と書いてありました。息子にそれを見せるとすごく喜んでくれました。この評判の保育園は奈良のどこでもというわけにはこういったちょっとした気遣いやサプライズってとても嬉しいですよね。
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先生、今でも元気な保育園です。
大学附属の幼稚部に合格していた私が、奈良の大和高田で保育士の求人を探そうとは引っ越しで、保育園に通う事になった私を見て、まだ2歳なのにひらがなもカタカナも読めると言って驚きながらも、優しく接しながら園長先生と年齢よりも上の学級に入れてくれたのは、嬉しかったと今でも思っています。
確かに本当の年齢より年上のクラスだったけれど、それから卒園出来なくても卒園式を何度も経験出来たのと、小学校に行くと保育園で同じだった学年が上の友達が声を掛けてくれたから、どんなバイリンガルスクールが神戸の中にはどこか年齢関係なく楽しく過ごすことが出来たのだと今でも卒業証書と先生たちが書いてくれたお祝いの言葉が書いてあるのを、時々読み返してみたりしては懐かしいさと共に先生の笑顔が浮かんで来ます。
保育士という先生が選んでされていたお仕事は、神戸のここでインターナショナルスクールとは成長した私には向いていない訳じゃなかったけれど、15歳の中学3年生の時に稀な特定疾患の病気になってしまい、二ヶ月半の意識が無い後に気付いた時には目も見えず話せずに指一本も動かせなかったけれど耳だけは聞こえたから、メディカルゲートで見つけるクリニックとはそこが日本一の大学病院だと分かったけれど、それ以来体育の授業はドクターストップで全て見学になり出来ない以上、先生と同じお仕事は出来なくなってしまいました。
だけど、その長い入院中に保育園で同じクラスだった男子生徒がお見舞いに来てくれたのが、評判の保育園を奈良の口コミで書き込むとどんなにも 珍しいしそれを先生が聞いてくれたら一緒に笑ってくれると思っています。 -
問題園児と優しい先生
40年ほど前の話です。ぼんやりとした記憶ですが、私は保育園に通っていたとき、相当な問題児だったようです。ここでもエレメンタリースクールなら神戸ではもう泣いて騒ぐわ、お昼寝はしないわ、気に入らないことがあると途中で家に帰ってしまうわとやりたい放題で、先生方も相当手を焼いていたと思います。今であれば何らかの障害と診断されていたかもしれません。それほど迷惑をかけていたにもかかわらず、申し訳ないことに担任の先生には私はあまり懐いていませんでした。かわりに私は、別のクラスの先生が大好きでした。新米の髪の長いキレイな先生で、問題児の私にも優しくしてくれていました。クリニックの強みを訴求できるメディカルゲートなら私が勝手に昼寝から抜け出しブランコで遊んでいても、「〇〇ちゃん、今日はおうちに帰らなくて偉いね」と当たり前のことを褒めてくれ、背中を押してブランコを漕ぐのを手伝ってくれたりしました。給食の時間も、何故かみんなとは別の場所で母が届けてくれたパンを食べていたのですが、その先生がそばにいてくれるので、寂しさなど感じず、満足していました。私と下の名前が同じで、それがなんだか誇らしく、とても嬉しかったのを覚えています。卒園して以来その先生にはお会いしていませんが、今思えば、先生と私は20歳も離れていないのでしょう。もしお会いできたら、それなりにちゃんとした大人になれたことをお伝えして、お礼を言いたいです。
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幼稚園の先生と喜びあった日
親から1度も離れたことがない息子が3歳になり、幼稚園に通い始めることになって心配していたのが親と離れて幼稚園生活を送ることが出来るのかでした。神戸もインターナショナルスクールと呼べるのは入園後、やはり息子は幼稚園で馴染めず常に担任の先生や補助の先生達に抱っこされていました。そして靴下と上履きを絶対履いてくれず、いつも1人だけ裸足でした。教育方針が、本人の自由を尊重しのびのび育てるという幼稚園だった事もあり、先生も本人が嫌がっているのなら上履きを履かなくても良いと言って、息子を尊重してくれていました。結局、年少では1度も上履きを履きませんでした。メディカルゲートおすすめするクリニックはここでも集合写真には、いつも1人だけ先生に抱っこされている裸足の息子。他の子供たちはちゃんと1人で立って上履きを履いて写真に写っています。なんでこの子は皆と同じように出来ないのかと恥ずかしく思っていました。年中になっても相変わらず1人だけ裸足の息子でしたが、一学期も終わりそうなある日、帰りのお迎えの時に担任の先生が嬉しそうな様子で私に近付いてきました。「お母さん!息子君が、今日上履き履いたんですよ!」と先生は興奮しながら嬉しそうに教えてくれました。思わずえー?本当ですか!と言って先生と手を取り合い、凄い凄いと大騒ぎしてしまいました。その後担任の先生だけでなく他の先生からも「息子君、上履き履いたんですよ!凄いですよね!」と声をかけられ一緒に喜びました。何年も前の話で、今となっては上履きを履かずに悩んでいた事は笑い話ですが、先生と喜びあったあの日は忘れられません。